腑抜けの日々

 今、ここ数年経験していない「腑抜け」状態になっている。実はカミサンと娘が春休みでカミサンの実家に帰省中により、久しぶりの家族サービスの無い、自分一人の週末を過ごしていた。ここ数年来、自分の時間が夜しか無いため寝不足の生活が続いていたが、どうやらその限界が体力的にも精神的にも来ていたようで、この一ヶ月は本当辛かった。ジムで体を鍛えているにもかかわらず、その成果が実感できず、慢性的な疲労感がが抜けない。駅の階段を駆け上るのは簡単だけど、仕事などが億劫でモチベーションが上がらず、集中力の維持に苦労する。そんな生活が続いていたせいか、久しぶりの一人暮らしも開放感を味わうというゆとりも無く、体を休めることを優先、まあ引きこもっていた。
 正直なところ、何が目的でこんな生活をしていたのか、と我ながら疑問を持つこともある。「難しい哲学書やら小説を読んで何の役に立つのか?」と。「それが興味あるから」「好きだから」という答えを自分に言いかせながら、単に現実逃避をしているだけでは無いかと落ち込むことだって何度もあった。まあ明快な答えなど自分でもよくわからない。自分の時間に触れる本や映画やpodcast、そしてこのblogを書くことが、自分以外の、相対する壮大な「他者の世界」と渡り合う上での何かしらの役に立ち、あるいはその渡り合うための「成長」の糧となることを祈るのみだ。

 「腑抜け」にはなったものの、図書館だけは行っている。今回は「読破」というより「リサーチ」的なことが目的で、ボードレールの詩集「悪の華」「巴里の憂鬱」、諸橋轍次の「荘子物語」、レヴィナスの「実存から実存者へ」を借りた。このブログを書いていてつくづく感じたのだが、文章、特に「書く」ということに対してまだまだ力量不足で、言葉に対してそれもアートとしての表現にこれまでより真摯に向き合う必要性を実感している。さらにまた「思考する」ということにもこれまで以上に取り組むべきなのだろう。

 うまくは言えないのだが、相対する壮大な「他者の世界」から、自分の「意思」というものを今まさに問われている、そんな感じがしている。

悪の華 (新潮文庫)

悪の華 (新潮文庫)

巴里の憂鬱 (新潮文庫)

巴里の憂鬱 (新潮文庫)

荘子物語 (講談社学術文庫)

荘子物語 (講談社学術文庫)

実存から実存者へ (講談社学術文庫)

実存から実存者へ (講談社学術文庫)