ロング・グッドバイについていろいろ

 「私はコーヒーカップを手に部屋の中を行き来した。テレビをつけ、テレビを消した。腰を下ろし、立ち上がり、また腰を下ろした。」
 これは、レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ村上春樹訳の中の一説だ。「私」はこの小説の主人公のフィリップ・マーロウで、この一説は、「何かいわくがありそうで、でも好感の持てる」テリー・レノックスと知り合い友情を育み、彼のせいで事件に巻き込まれ、警察に勾留され悪徳警官にもいじめられたりしながらも、その友達の自殺により釈放されて自宅に戻ったときの、彼の行動の描写だ。この前には、警察を出たところで新聞記者と会い、会話するシーンがある。この後にはテリー・レノックスの事件を新聞で調べるシーンが続く。フィリップ・マーロウは実に細かく自分の行動を「告白」している。この場面だけでなく、全編通して大変いっぱい語っている。でもあることに限ってはほとんど語っていない。自己の感情や心理状態についての記述はかなり少ない。
 上記の一説にしたって、レノックスの自殺に対する疑いの気持ちとか、悪徳警官に対する怒りとか、いろいろ語れそうな内容が沢山ありそうなのだが、何故かそういうことは直接的は書いていない。そのようなことは、彼の行動の描写の中とか登場人物同士の会話の中で間接的に提示されている。これが文体としてのハードボイルドの手法なわけだが、このフィリップ・マーロウが自己の感情描写を消す「書き方」によって、読者は彼の眼差しに入り込みやすくなり、彼の眼差しを通して事件を「体験」することが出来る。そのようなことを考えながら読んでみると結構面白かった。

 でも「ハードボイルド」は文体としてより、その登場人物、特に語り手である主人公の生き方を象徴しているようにも思える。単独行動。泣き言は語らず、仕事はまじめで、大金を積まれても自分の信条は曲げない。この主人公の「人格」はかなりな影響を小説、映画に与えたと思う。今でもこのような登場人物のミステリーやサスペンスはかなり多いのではないか。
 
 実は今から28年前の17歳のときに、清水俊二訳の「長いお別れ」を読んでいる。読んだ後しばらくはマーロウのような語り口になり、当時交際していた女の子に「らしくない言い方をするのね」と突っ込まれていた。だけど、彼女こののセリフのおかげで、能天気にギムレットを頼むような大人にならずに済んだ。いかにも「チャンドラー読んで憶えたカクテルですよ」と、選挙カーなみの大音声で宣伝しているようで深みというものがない。ギムレットを頼むぐらいなら、「ピニャ・コラーダ」のほうがすんなりいける。「フローズンダイキリ」だってOKだ。
 今回「ロング・グッドバイ」を読んで改めて認識したのだがギムレットって、テリー・レノックスの「今となってはほろ苦い、幸福な時の切ない思い出のお酒」だったのだ。しかもそれは第2次世界大戦(!)中の生きるか死ぬかという体験とも絡んでいる。また、村上春樹による解説でも、チャンドラーはイギリスで育ち、第1次世界大戦(!)で戦争を経験しているとのこと。変にその気になって「本当のギムレットの作り方を知ってるかい」なんて語るような大人にならなくて良かった・・・
 まあ戦争体験は置いていても、「今となってはほろ苦い、幸福な時の切ない思い出のお酒」があるならば、たとえそれが「ワンカップ大関」だとしても、それを飲むあなたの姿はきっと「渋くて味のある」ものに違いない。


訳者あとがきは結構勉強になったなぁ・・・

ロング・グッドバイ

ロング・グッドバイ