貫かれたその後

貫かれた後遺症

 「心臓に貫かれて」の重たい本を読んだ後遺症か、今はあまり集中して本を読む気分になれないでいる。おそらくこの本についてこのブログ書いたことも影響している。この本について書くのは本当に難しかった。じっさい大した文章ではないのだけど、あそこまで形にすることは僕に大変しんどい事で、かなりの時間と労力がかかっている。文章というのは難しい。なかなか思い通りに扱えない。
心臓を貫かれて 上 (文春文庫)心臓を貫かれて 下 (文春文庫)

 実は「心臓を貫かれて」を読んでる間、大阪教育大付属池田小の児童教師殺傷事件のことを思い出していた。僕はこの事件とは直接の関係はないが、この事件は子供がいる僕にとって想像することすら憚れる悲劇だ。それ、犯人がほぼ同世代ことあって、記憶の中に焼き付いて忘れることができない。あの犯人をあの行為に駆り立てたものは一体何だったのだろう?
 「心臓を貫かれて」は、犯罪者が誕生するにはその資質だけではなく、成長した環境も少なからず影響していて、彼の内で育み増幅させ罪無き子に向かって爆発せた何かは、全てではないにせよ、少なくとも何%かは我々の住む世界が関与したものということ示唆している。僕らのいる世界には、得体のしれない漆黒の闇のような澱みがあるらしい。それは一体どんなものなのだろうか?
 そんなことをあれこれは考え出して、僕は憂鬱な気分に浸ってしまう。

暗い話ばかりしないで・・・

 最近の読書は朝の通勤時間とランチタイムにしている。ランチタイムのほとんどは職場近くのスターバックスだ。
 スターバックスに限ったことではないかもしれないが、最初に勘定を払う時くらいしか店員との接点がないような店の場合、これまでは僕は店員の顔を憶えることがなかなかできない。このことに気付いた時、マニュアル化された接客につい迎合して、金銭とコーヒーを媒介とした客という記号として機械的にシステマチックに処理されている感じがして面白くないと思った。そこで今回は積極的に店員の顔を憶えるようにして、今のところ5人の従業員を把握できている。その記憶による態度の微妙な変化を受けて、彼らの態度になんらか変化が起きるのか楽しみにしている。マシーナリーではなく心をもった人間として接客されたいというささやかな抵抗だ。