人とは葛藤する生き物

近況

 金曜日はジムで水泳。昨年末に背中を痛めてから調子が上がらず、ここ1ヶ月水泳は止めて筋力トレーニングとバイクトレーニングをしていて、それなりに成果を感じて水泳を再開したのだが、すっかり筋持久力が落ちていて、以前は20分連続で1kmぐらい楽に泳げたのに、いまでは200mでもう背中と腕の筋肉が悲鳴をあげる状態である。
 今日も背中が少し痛い

読書

 レヴィナス「実存から実存者へ」読了。電車の中とか昼休みのに慌しい中で読んでいたので、理解には程遠い。超特急の列車の小さな窓から垣間見た景色の残像のようなものあるだけだ。こういう本は落ち着いた場所でじっくり読みたかった。

「なぜここにいるのか」という疑問を持つ時は、今その人が生きている世界と自分との間の「ずれ」を見つけた時だ。そういう時は、何かその人にとってうまくいかないことや、受け入れ難いことに直面している。今いる現実に満足できないときにに初めて自分のあり方に目覚める。「自分探し」が流行っていたが、その裏には「うまくいかない現実と自分のあり方」のギャップを感じている人が多かったのかではないだろうか。「自分探し」を否定的にいう人もいるが、生きていくなかで、受け入れ難い現実に直面することなんて、僕の経験では当たり前のように頻繁に起こる。自分探しの否定者は「当たり前のことに惑うな」と言いたいのだろうか?。現実と自分の存在との違和感を、一時的な享楽に浸ってその時だけ忘れることはできるけど、違和感は消えない。「何故ここにいるのか」という問いは常に目覚めたもののそばにある。僕らは葛藤する生き物だ。
 なのに僕らいる社会は、なぜかその葛藤に冷淡だ。「ここにいるなら悩まず打ち込め」と僕らに強いる。この直面している世界にとけ込み隷属せよ、と言わんばかりだ。人は己に「なぜここにいるのか」と問う生き物と認めていないようだ。
「やる事やったらあとはご随意に」となぜ言わないのだろう。

レヴィナス読みながらこんな事を考えていた。

実存から実存者へ (ちくま学芸文庫)

実存から実存者へ (ちくま学芸文庫)